パット・ヘネン
[ アメリカン・カーボーイ物語 ]
パットは自らを、”カーボーイ” とそう呼んでいた。
弟のチップもレースをしていたが、アメリカを飛び出して、二人で世界選手権に行くことを決めた。
次のレースで勝った方が「ライダー」、負けたら「メカニック」と決めて二人は勝負した。
腕は互角なので、どちらが勝っても不思議ではなかったが、勝利の女神はパットにほほ笑んだ。
アメリカからプライベートで WGPに乗りこんでくるライダーは少なかった。
彼らはハングリーな、愛すべき ”カーボーイ” だったと、共に汗を流した友として「証言」できる。
引退後、ゴールデンブリッジの麓に住まいするパットを訪問した。パットがマン島で負った大けがにも関わらず、パットの彼女だったカレンはいつも変わらぬ笑顔で献身的にサポートしていた。
あれから30年、今は三人がそれぞれの人生を歩んでいてFBで再会した。
私たちの記憶には、時計が止まったかのように、あの時代の、いくつもの会話が、昨日の出来事のように想い出される。
お互いが思い切り生きた証は、記憶として留まり、記録として残されている。
良き仲間と「辛さを超えた体験の共有」が、私たちの人生に厚みと重みを与えてくれることは間違いないようだ。
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by takazumikatayama
| 2012-08-19 10:12
プロフェッショナルなチーム運営
[ 懐かしのワンショット ]
1986年から RTK (Racing Team KATAYAMA) は、日本国内で6名、WGPで3名のトップクラスの選手を保有して、GP500.250に数年間参戦していた。
バージニオ・フェラーリ、レイモンドロッシュ、福田照男たちが居た時代だ。
知っての通り当時の国内2輪レース参戦チームはビジネスとしては確立されていなかった。
そこに「東亜国内航空→JAS」「東京エレクトロン」「MIZUNO」「BOSE」「ファミリーマート」等々、それまで国内レースには興味も示さなかった、関連外企業を次々と導入して行った。
国内外のチーム運営は、毎年3~5億円のスポンサーで支えられていた。
何故それが可能だったか?
それは、当時の2輪レースは「コンテンツ」としても輝きがあった。
そして、熱意を持って企業関係者に、「説明」「説得」を行った。
すべからく『熱意』が活動の原点となり、『熱意』が人々の心を動かし、『熱意』が行動へと変化させる。
当時の、この写真の記憶は乏しいが、見られることを意識したパーフォーマンスが、充分に織り込まれていたと思われる。
BERT活動を推進する今とは、正反対とは云わないが、150度ほど対極に位置した活動が必要だった、懐かしの RTK時代だったと言えるだろう。
ホンの少し前の、古き良き時代の思い出だ。
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by takazumikatayama
| 2012-08-12 17:31
[ 勇者の後ろ姿 ]
男の感情は背中に表れる
エディーとランディー
この二人の走りに感動し、沢山の元気を貰ったライダーも多いはず。
素敵な記憶を貰った御礼に、思い出の言葉を、二人に送ってあげよう。
最高の賛美を!!
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by takazumikatayama
| 2012-08-05 11:17
[ 逆境は飛び越えろ!! ]
[ 逆境に負けるな! 飛び越えろ! ]
悲しいことに、生きていれば、何度もの「逆境」が押し寄せてくる。
前向きの推進力が強いほど、また逆境も大きく覆い被さってくる。
いくら避けてもやってくる「逆境」だから、ぶつかったら腹を括る。
そんな時『今まで以上に推進力を上げてみる』
それはちょうど、船が、大波を直角に受けて乗り越えていくように!!
チャンピオン街道をまっしぐらに、先頭で走っていたとき、転倒して鎖骨骨折をした。
一瞬、我が身を疑ったが、翌週にはユーゴスラビアで、世界グランプリ選手権が待ち受けていた。
転倒したサーキットがベルギーだったので、有名なドクター:ダーウィドウィンの病院に向かった。
「単純骨折なので、4週間もすれば、骨は回復をし始める」 と、ドクターは言った。
「とんでもない、明後日にはユーゴスラビアに向かわないとならないので、
すぐに手術して、チタンプレートで固定して欲しい」 と、頼んだ。
ドクターは、2日で退院は無理だろうと話してくれたが、大丈夫だと言い切った。
言い切るしか、チャンピオンになる道が、残されていないと感じていた。
病院に入ったのが月曜日、手術が火曜日、退院が水曜日、ユーゴへの到着が木曜日。
そして、金曜日から予選が始まった。
(ユーゴスラビアのパドックで)
パドックの誰もが、その目を疑った。
転倒骨折したはずの、「ジャパニーズ・サムライ」が、ユーゴのオパティアを歩いていた。
メカニックの杉原たちは、先にサーキットに入り、マシンの準備をしてくれていた。
マシンに跨って伏せようとしたが、左手がハンドルまで伸びない。
カウリングに潜り込むことが出来ないのだ。
これじゃ~、押しがけスタートなんか到底できない。
それでも、逆境は飛び越えるしかなかった。
誰もが、チャンピオンメダルを目の前にぶら下げられたら、痛みのことなんか忘れるだろう。
私も、同じように、そうした。
予選も、レース本番も、走行が始まる1時間前には、マシンにまたがり、カラダをかがめた。
届かないステアリングに、左手をあてがって、腕が伸びるように、カラダを慣らした。
『執念は実る』
必ず、執念は実ると信じている。
単純な、頭の構造をしているほど、執念は実りやすい。
今でも、そう信じている。
悲しいことに、生きていれば、何度もの「逆境」が押し寄せてくる。
前向きの推進力が強いほど、また逆境も大きく覆い被さってくる。
いくら避けてもやってくる「逆境」だから、ぶつかったら腹を括る。
そんな時『今まで以上に推進力を上げてみる』
それはちょうど、船が、大波を直角に受けて乗り越えていくように!!
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by takazumikatayama
| 2012-08-04 11:34
初めての WGP500 への挑戦
[ 1978 YAMAHA 500 ]
初めての WGP500 への挑戦はすこぶる楽しかった。
しかし、初試乗でリアサスペンションのフィーリングが「感性と合わない」ことが判明した。
どのように「合わない」かというと、限界がつかみづらい、その一言に集約される。
ギリギリでエッジ走行を好んでいた当時のライディングは、「その感覚」がつかめないことには、信頼して走りきれなかった。
”勝利” のためには最短距離で手段を選ばない性格だった当時の ”TAKAZUMI” を知り尽くしていた YAMAHA の役員たちは、ファクトリーマシンのリアサスペンションを外し、別物を装着して 1978 年の第一戦からレースすることを許可した。
前年にチャンピオンを獲得した ”TAKAZUMI” の我が儘を、「やんちゃ坊主」を見守る暖かさで容認してくれた。
その影で、冷や汗を流された「役者」が何名もいたことを後年知らされて、今は感謝に耐えない想いで一杯だ。
『信じて走る』その前に、
信じて走れるほどに、打ち込まなければならない、日常が存在する。
何が日常で、何が非日常かの区別もつかない毎年の、
8760時間をフルスロットルで走った記録写真の一枚を披露する。
(アッセンGP のワンシーンから)
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by takazumikatayama
| 2012-07-28 09:53
BERTの世界観
by takazumikatayama
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